言語って人が口から出すわけだから当然音で表現されるよね。
この「音」ってやつが曲者で、「イントネーション」という厄介な要素を持っているんだよね。
音の高低や強弱、トーンの違いやテンポなどなど。
気にし始めたらキリがないんだ。
だからとりあえず今回は、声優・ナレーター・アナウンサーなどが話す際のイントネーションについて軽く話題にしてみようと思うんだ。
人が発する言葉にあるイントネーションの違いによる微妙なニュアンス。
ちょっとしたニュアンスの違いが大きな誤解にまで発展してしまう可能性があるってことを理解してもらえると嬉しいです。
標準語の持つイントネーション
イントネーションって何?
言葉のイントネーションというのは基本的には音が高いか低いかで表現される。
言葉が持つ音の高低というのは普段話しているときに意識している人はほとんどいないと思う。
それもそのはずで、音が高いだの低いだのなんかを意識してたら会話なんかできなくなるww
でもそれを意識してコントロールするのが声を仕事にしている人たちなんだよね。
言葉の音の高低を示すときに使われる専門用語的なものに「頭高(あたまだか)」とか「中高(なかだか)」とか「語尾上げ」「語尾下げ」と言われるものがある。
どういうことかと言うと、例えば「僕は夢は見ません」というセリフ(言葉)があったとします。
文節で区切ると
「僕は/夢は/見ません」
となる。
それぞれの文節のイントネーションを見てみると
- 「ぼくは」では「ぼ」の音が高くて「くは」の2つの音が下がる
- 「ぼ」の位置は文節の頭の位置にあるので「頭高」
- 「ゆめは」では「め」の音が高くて「ゆ、は」の2つの音は下がってる
- 「め」の位置は文節の中の位置にあるので「中高」
- 「頭高」と「中高」はこのように2つの文節を読むときの音の高低の場所の違いを表している
アナウンスのトレーニングをしている人たちにとっては常識的な話なんだけど、一般の人にはなじみのない表現だよね。
でもこの音の高低の位置(アクセントと呼ばれている)が曖昧だと、標準語としては表現が足りないものになってしまうんだよね。
頭高の「ぼくは」の表現。
これを中高で「く」の音を高くしてしまうと、関西弁なまりに聞こえてしまう。
逆に言うと、関西弁みたいな雰囲気を出したければアクセントの位置を変えることでそれが出来る。
こういうのは意識しないとできないし、知識として持っていないとコントロールも出来ないよね。
イントネーションは単語そのものが持っているもので、そのための辞書も存在します(アクセント辞典)。
興味のある人は目を通してみるのもいいかもしれないね。
音で伝わらなきゃ意味がない
冒頭でも触れたけど人が話す言葉は音で相手に伝わる。
音の高低や強さ、トーンの違いや何かで様々な形態のニュアンスを加えて言葉を伝える。
これが出来ないと正常なコミュニケーションが取れないんだよね、人は。
「声」に関する慣用句も様々なものがあるしね。
「声色」とか「声がふるえる」とか「声に艶がある」とか、とにかく色々。
人は顔に表情があるように、声にも表情を持っているんだよね。
その声の表情で人が持つ色々な感情や本音が言葉に表される。
そして声の表情をコントロールする一因となるのが「イントネーション」。
そういう意味ではイントネーションを使いこなすことができれば、他者に自分の感情を自分の意図した形で伝えることが出来るということになる。
どういうことかというと。
簡単に言えば、嘘が上手くなるww
それは極端な例だけど、普段の生活の中で他者に不愉快な思いをさせないために言葉を選んだり、言い方に気を付けるなんて経験はあるでしょ?
つまりそういうことです。
人はいわゆる「声色」を意識するとき言葉の表情をコントロールしているんです。
イントネーション、って改めて言われると「ん?何それ?」ってなるけど、実際の経験で考えるとわかりやすいんじゃないかな。
そして声の仕事に携わっている人たちは、このイントネーションを使って様々な情報に表情を加えて分かりやすく伝えています。
だから、その表情を与える手段が間違っていては台無しだということ。
特にラジオやポッドキャストなどのようにメディアが音だけの媒体では、より厳密にコントロールされるべきなんだけど、さて、現状はいかがなものか。
時代で変わる
イントネーションにもその時代の流行りみたいなものがあって、昔と今ではイントネーションが変わっていった言葉も多くあります。
あと昔に比べると言葉の持つ抑揚も小さくなっているようにも感じます。
これは現代語が徐々に短縮されて話される現象と共通する部分もあると思うのですが、要するに省エネですね。
短い言葉でより多くの情報を伝達する。
まあ効率的といえば効率的だけどね。
短縮されているというところをもう少し詳しく触れると。
「マジヤバくね」というフレーズ。
現在ではごく普通に使われてるよね。
でもこれ、20年くらい前だったら「マジでヤバいんじゃない」くらいの長さで普通に使われていたと思います。
現在の方が単純に文字数が減りフレーズが短くなってるよね。
でも言っている意味もニュアンスもほとんど変わっていない。
こんな風に言葉って時代で変わっていきます。
イントネーションの場合も同じで同じ内容のフレーズでも時代によって変わってきます。
「マジヤバくね」は「マ」が高くて「ヤバくね」がほとんど同じくらいの高さで話されるよね(実際に言ってみてw)。
「マジでヤバいんじゃない」では「マ」が高いところは同じだけど、「ヤバい」の「バ」で音が一段上がる。
そして「じゃない」の「い」で語尾上げがされる(これも実際に言ってみてw)。
音の高低を文章で伝えるのって難しくて、何を言っているのかわからないかもだけど、普段使っているフレーズをちょっと音の高低を意識してしゃべってみて欲しい。
そして昔の映画などで語られている台詞のイントネーションも意識して聞いてみて欲しい。
けっこう現在と違ったイントネーションが聞くことが出来るはず。
微妙なニュアンスの違い
アナウンスにも音痴ってある
ニュース番組なんかでは特に気になるんだけど、ニュース原稿を読んでいるアナウンサーが突然なまることがあるんだよね。
正確にはなまって聞こえるんだよね。
これは、ニュースを読んでいるアナウンサーを責めているわけではないのだけれど、単語の持つイントネーションがちょっとでもおかしくなると、とたんになまって聞こえてしまう。
たとえば「今日未明(きょうみめい)」とニュースの読み始めがあったとします。
これの正確なイントネーション(アクセント)は「きょ」が高く始まり「うみ」までが低く「めい」でまた上がる。
それを「み」で上がってしまうと、とたんになまって聞こえてしまう。
ボクはこれをアナウンスが音痴になると呼んでいるんだ。
この音痴の要素には他にも「間」とか「テンポ」とか「リズム」の要素も含まれるんだけど、ここでは「音の高低」だけに絞って話を進めていきます。
カラオケなんかでも音痴の人の歌は聞き苦しいよねww
カラオケなら遊びなので問題ないけど、テレビやラジオ、他のメディアから流れてくる音声ともなると問題にならないわけがなくて。
特にラジオのような音声のみのメディアの場合は致命的にすらなりかねない。
言葉の持つイントネーション(アクセント)は言葉の意味そのものを表すことも多いから。
アナウンサーやナレーター、声優も、基礎的な勉強の段階でイントネーションとかアクセントについては相当叩き込まれます。
それでも生放送などで緊張していたり、ディレクターの指示などが気になってしまったり、原稿が分かりづらいなどで、読み違いやイントネーションの間違いなどが起こってしまいます。
読み違いは言い直しをしてすぐに訂正できますが、イントネーションの間違いは訂正しづらいんだよね。
「今の未明のみの音が上がってしまいました。正確にはめいが上がります」
なんて言っても視聴者は???となるだけで、訂正にすらならない。
だからイントネーションには細心の注意が必要なんだけど、意外に間違いが多い。
この原因は、たいして問題だと思っていないのか、そもそも間違いに気づいていないのか。
聞きづらい原因
イントネーションの違いで意味が違ってきてしまうという話をしたけども、それがどういうことか。
日本語には同じ読み方をするけれどまったく違うものを表す言葉が数多く存在します。
「箸」と「橋」
「雨」と「飴」
「牡蠣」と「柿」などなど。
この3つはどれも前者が「頭高」で読み、後者が「語尾上げ」で読みます。
本来は音だけでも2つは違って表すことができます。
ところがこれらの言葉が文章の中で使われるときに、紛らわしい使われ方をするととたんに厄介なことに。
「そのハシ、渡らせたらダメだよ、みっともないよ」
このときの「ハシ」は「箸」?それとも「橋」?どっちでしょう?
この文章には続きがあります。
「そのハシ、渡らせたらダメだよ、みっともないよ」「食器の上に箸を渡らせるのはマナーに反するからやめた方がいいよ」
正解は「箸」でしたね。
でも続きの文章がこちらなら。。。
「そのハシ、渡らせたらダメだよ、みっともないよ」「あんなみすぼらしい格好の者を渡せたらその立派な橋がけがれてしまうよ」
こっちだと正解は「橋」でしたね。
「ハシ」のイントネーションの違いで文章の意味が変わってしまうこと、おわかりいただけただろうかww
イントネーションが違うと文章の内容を把握するのに邪魔になってしまうんだよね。
イントネーションを間違えるということは、読み違えるのと同じこと。
なんならもっと酷い。
知的にも幼稚にもなる
イントネーションが違うとなまって聞こえるという話をしたけど、もう一つ弊害があるんだよね。
それは、深刻な災害のニュースや犯罪の内容などのきちんとした情報が伝わりずらくなるということなんだ。
どういうことかというと、イントネーションの違いが気になってしまうということもあるけど、幼稚に聞こえてしまうんだよね。
子供が一生懸命難しい言葉を話している感じ。
なんかズッコケるというか、緊張がゆるんでしまうんだ。
これはニュースや情報を的確に伝えなければならない状況では致命的。
だから、アナウンサーなんかは言葉の持つイントネーションに厳しいし、それを実践している。
もともと言葉っていうのは誰かと会話をしながら会得していくものなんだろうけど、あらためてイントネーションについて気を付けるというのは結構しんどい。
でも、言葉で仕事をするなら絶対に避けてはいけないスキル。
平板読みの弊害
平板読みって??
イントネーションの中でも音の高低について触れているんだけど、最近の話し方に「平板(へいばん)」というものがあります。
どういうものかというと、文字通り平板、つまり平たい音の高低で話すんです。
とは言っても1音くらいの音の動きはあるんだけど。
主に言葉の出口が平板になるパターンを平板読みと呼んでいるかな。
最初の方でもふれたけど「マジやばくね」のフレーズ。
マの音が高くて後の「ジやばくね」は同じ音と言いましたが、これが平板読み。
なんなら「マジやばくね」が全部同じ高さになっている人も最近は多いよね。
平板読みは略語で表現されるときにありがちで、「アラサー」とか「ギャルゲー」とか「無理ゲ―」とか。
これ全部平板読みで呼ばれてるよね。
逆に頭高とかでイントネーション(アクセント)がつくと、なんかバカにされてるというか笑っちゃうよねww
この略語の文化も現代を象徴しているというか、言葉を短くする風潮もあいまってイントネーションの観点で言うと特徴的なんだよね。
略語だけを助詞で繋げても十分意味が通じる現代社会。
「アラサーのギャルゲーとか無理ゲーじゃね?」
こんな文章でも意味通じるもの。
これも時代の流れなんだろうね。
だから言葉を仕事にしていく以上はこういった時代による言葉の文化の違いや変化にも対応できるように、基本から磨いておかないと。
ギャル語??
ありましたよね~ギャル語ww
現在の言葉のイントネーションを大きく変化させたのがこのギャル語。
言葉を略してなおかつ平板読み。
まさにギャル語ですww
こういう風に言葉のイントネーションやリズムというのは時代とともに変化していて、昭和の最初の頃のイントネーションとは現在はだいぶ違うようです。
ある一定の時代を周期に言葉のリズムや響きが変化するのだそうです。
この「ギャル語」なども時代が生んだ言葉の変化なのでしょう。
ある意味これも文化ですよね。
事実、現在まで受け継がれているギャル語が発生源な言葉やイントネーションは数多く存在すると思います。
いやーギャル、インパクトあったからねー
年齢で違う
時代の話と共通するんだけど、言葉のイントネーションや響き、リズムといったものは年齢によって全然違ってきます。
10代のJKと70代のお年寄りでは会話のテンポもイントネーションも別次元かっていうくらい違ってくるよね。
これってあたりまえのようで実は不思議な話だと思いません?
同じ日本人、時代もせいぜい50年くらいしか違わない。
なのに話している会話のイントネーションとかテンポとか異次元の人たちかっていうくらい別物だよね。
そして我々はそれを当然のこととして受け入れているよね。
これって年齢や時代によって会話のリズム・テンポ・イントネーションに違いがあることを肌で実感しているんだよね。
だけど改めてイントネーションの違いという観点で話されると、いまいちピンとこない。
少なくとも、普段生活していてイントネーションの違いを世代間で共有するなんてことはまったく意識しない。
それでも世代間のイントネーションのギャップについてはきちんと気づいてる。
だから、言葉を仕事にしている人たちはイントネーションを気にしている。
世代間で感じてしまう会話のイントネーションによるギャップみたいなものを聞いている側に与えてしまってはいけないから。
そんな日常に潜んでいるギャップとか違和感を常に意識する。
それがプロ。
無意識を意識する。
これが大事。
正解はたぶんない
伝われば大丈夫!
と、うるさいことをウダウダと書いてきたけど。
究極のところイントネーションだのアクセントだの細かいことは気にしないで、聞いている側に伝わればそれでいい。
ま、極論ですけど。
ただ注意しないといけないのが伝え方と伝えやすさとは何なのかということ。
たとえば友達で地方の出身者で普段からなまりがある喋りをする人がいるとする。
最初の頃は何を言っているのかわからないこともあって、会話に困ったりもするかもしれない。
でも、何回か飲み(お茶)を重ねたりして、その友達の人と成りが分かってくると、なまりなんて気にならなくなり話していることも理解できるようになる。
これはアナウンスという観点から言うと一番当てにしてはいけないケースなんだよね。
第三者にある特定の情報を伝えることをアナウンスと言うならば、アナウンスする側の人と成りに頼った(甘えた)形ではダメだよね。
もちろん伝える側の人と成りに頼ってもいけない。
なにが言いたいかというと、「伝える対象は人間である」ということだけで情報を伝えなければいけないということ。
その人間はなまりを理解してくれないかもしれない。
何を言っているかわからないと怒りだすかもしれない。
そんなことを仮定して情報をアナウンスする。
そうすると必然的に100人が聞いたら100人が理解できるアナウンススキルが必要となる。
そのスキルの一つにイントネーションのコントロールがある。
情報のアナウンスって意外に伝わらないんだよ。
そんなときのために言葉の発信者はある手段をとります。
聞く側に聞く姿勢にさせる。
そんなアナウンスをするための方法もいろいろあったりします。
そういうのも今後、記事にしていきたいと思います。
今は、何をどうすれば相手に情報が伝わるのかを意識的に行う、ということの重要性に気付いてほしい。
だから基本は存在する
何でもそうだけど、基本って大事だよね~
もちろんイントネーションのコントロールにも基本的なことはたくさんある。
そして基本を知ることがアナウンスの第一歩となる。
基本と言われるモノの中には、テクニックのほかに心構えみたいなものも含まれる。
聞き手側の立場になるというのはその基本の中でも大前提なんだ。
小学生のころから当たり前のように受けてきた国語の授業。
じつはここにアナウンスの基本がびっしり詰まっている。
「わたし」がいて「あなた」がいる。
そして会話が始まる。
ここには国語の授業で習った文法やら文章解釈やらの知識を意識しなくても、会話は成立してる。
だから普段人に情報を伝えるとき、文法やら文章の解釈やらを気にして言葉は選ばない。
身体が覚えてるからね。
でも。
不特定多数の人々に情報をアナウンスするとなると話が変わってくる。
主語はなにか?
述語はなにか?
重要な情報を的確にするために倒置を使うか?
5W1Hは意識できているか?
もろもろ。。。
アナウンスする原稿を作る人間はこんなことを意識して文章を作る。
だとすると、アナウンスする人、つまりナレーターは原稿を読むときにその文章を文法的にかみ砕いてアクセントやイントネーション、抑揚、リズム、他にもいろいろなことを吟味してより伝わるアナウンスを心掛けなければならない。
そんな解釈の原点が国語の授業であり、それがアナウンスの基本ともいえる。
常にそこのところを心構えとして持っておく。
多くの日本人が学んできたであろう「国語」というものを。
ジャッジが難しい
ただね。
これは経験からの話なんだけど。
イントネーションって要するに音の話じゃないですか。
音って人によって全然聞こえ方が違うんだよね。
歌なんかでも伴奏(カラオケ)があるからその人の歌があっているのか間違っているのかの判断がつくんだよね。
伴奏がないと一瞬あっているのか間違っているのかの判断が出来ない。
しばらく聞いてるとわかってくるけどもww
アナウンスの場合、当然伴奏はないww
だから一瞬あっているのか間違っているのかの判断がつかない。
だから。
一瞬であっていると思わせるイントネーションを必要とされる。
それはつまり。
100人中99人は理解できるイントネーションを使わなければいけないということ。
もちろん、難しい。
けど、目標はそこ。
そして自分自身が正しく情報を受け取る(聞き取る)ことができる人間でなくてはならない。
だから、良いアナウンサーは良い聞き手であるということ。
聞くことが上手い(耳がいい)人はアナウンスもうまい(滑舌やらの問題は別にして)!
つまりね、上手なアナウンスを常日頃から聞くようにしよう。
耳をきたえるために。
そして、上手だと思うナレーターのアナウンスをまねてみよう。
そうやって自分から出る音を100人中99人が理解できる音にしよう。
それが一番の近道だから。
まとめ
声優・ナレーターが気にするべきイントネーションやアクセントの問題について触れてみました。
普段あたりまえのように話している言葉だからこそ、改めて気にしてみると難しく感じたと思う。
だけど、言葉を他人に伝えるという意味では絶対に避けて通れない問題でもある。
独りよがりにならず、他人の意見やしゃべり方なども参考にしてみてほしい。
美しい日本語を話す原点はイントネーションやアクセントに対する意識から生まれることを、肝に銘じてみて。
では、今回はここまで。
ゆうでした。
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