ナレーターという職業を知っているかな?
テレビのバラエティ番組なんかで声だけで出演している人たちのこと。
ナレーションをする人たちだからナレーター。
男女問わず今のテレビ番組には欠かせない職業なんだ。
知っている人も多いと思うけど、意外に意識してその存在を気にとめている人も少ないかもしれない。
今回はそんなナレーターという職業の魅力について話していきたいと思います。
ナレーターに興味があるという人にも参考になるんじゃないかな。
文章に彩りをあたえる
文章だけでは物足りない
映像があたえる情報ははかり知れない。
けど、映像って見ている人の気持ちというか、主観がものすごく影響するんだよね。
例えば、冬に雪に覆われている富士山の映像が流れているとする。
その映像を見て「なんて美しい富士山なんだ。もう冬だな~」と心が洗われるような心境になる人もいれば、「富士山も雪に覆われてしまった。もう寒い冬がやってくるんだな…」と寂しいような心境になる人もいるかもしれない。
映像だけだと、制作者が意図している想いが伝わりづらいことがあるよね。
そんな時に効果があるのが「音楽」と「ナレーション」
特にここではナレーションの効果について触れていきたいと思います。
さっきの映像の話で、
「だったら、テロップを使って文章で説明すればいいじゃない?」
と思った方。
正解。
実際、テロップだけで映像を説明している作品も数多くあります。
ありますが。。。
ナレーションの効果を是非とも味わっていただきたい。
そう。
文章だけでは物足りない。
文章だけでは伝わり切らない、ちょっとしたニュアンスの違い。
ナレーターの持つ空気とか世界観。
そんなものを求めて映像制作者たちはナレーションを入れていきます。
そして、その制作者たちの期待に応えるナレーターたち。
そんな視点でナレーションの魅力について話していこうと思います。
ナレーションのチカラ
ボクは昔からNHKのドキュメンタリー番組を見るのが好きで、いつの間にかナレーションを聞くことに馴染みがありました。
とくに女性のアナウンサーのナレーションが印象的で、数々の名ナレーションを生み出しています。
情緒的な透明感のある、それでいて押しつけがましくないナレーション。
そんなナレーションが多かったように思います。
そのナレーションの世界観は今でも受け継がれていて、NHKの看板女性アナウンサーは皆さんナレーションが素敵です。
ちなみに、NHKではナレーションのことを「語り」と表記することが多いですね。
確かに、テレビの向こう側から語りかけられているような、そんなナレーションですね。
この語りかけているようなナレーション。
他の局のアナウンサーにも多く見かけるようになりました。
やっぱり需要が高いのでしょう。
女性が優しく語りかけるということ。
つまりは、母親の語りかけや読み聞かせが原点なのではないかと思います。
幼い頃の潜在的な記憶。
経験があるなしにかかわらず、人間が持つDNAが「読み聞かせ」を優しさと受け止めるのではないでしょうか。
これは、女性が「語る」落ち着いたナレーションのお話。
そしてそれはNHKの女性アナウンサーの「語り」が、その流れを作ったのではないかという、ボクの推測です。
かたや。
バラエティ番組をこれでもかと盛り上げる、力強い声で語りかける男性のナレーション。
このパターンのナレーターを名前で紹介してもピンとこないかもしれないけど、番組名とそのナレーションを聞けば
「ああ!このナレーションの人ね!!」
となるはずです。
このパターンのバラエティ番組、いつ頃から放送されるようになったのかな~??
おそらくここ20年くらいだと思うのだけれども、気が付けばナレーションが番組を盛り上げるという手法が当たり前のように主流になったよね。
ナレーションを番組全体で使用する構成が番組制作の基本になっていて、そもそも「ナレーションありき」が当然になっている。
しかも、決まったナレーターで構成されている気さえする。
ナレーターのいないバラエティ番組って、もはや存在できないんですね。
世界観
よくBGMは世界観を表すと言われてます。
どういうことかというと。
簡単な例で説明すると、あるアパートの一室が映し出されているとします。
音は無音。
ここで言う音とは自然の中に存在する音。
例えば街の雑踏の音とか、子供たちの遊ぶ声とか、そういう自然の中に普通に存在する音。
そういった自然環境音がない状態で、BGMが流れていると想像してみて。
そのBGMが暗く狂気にみちたサウンドだとしよう。
おそらくその映像を見ている人は、これから起こるであろう恐怖のシーンを想像するだろう。
またBGMが優しく穏やかなサウンドだとしよう。
映像を見ている人はきっと明るく希望に満ちた日常のシーンを想像するだろう。
といった風に。
BGMには映像の中では表現していないけど、視聴者には何かしらの「意味」をあたえることができる。
それを「世界観」と呼んでいる。
ナレーションにはそのBGMが持つ世界観と同じような効果を映像に与えることができるんだ。
一番単純な例として、ナレーターが女性なのか男性なのか。
それだけで視聴者に与える印象ははっきりと変わってくる。
ほかにも、ナレーションの第一声がどんな声のトーンなのかで、その後に展開される内容を決定づけることもできる。
そしてそういった世界観は映像を制作する際に演出として使われる。
だから、映像制作者はナレーションに世界観を求めるんだ。
映画やアニメなど映像そのものにストーリーがある場合、BGMや効果音などで世界観を表すことが多いけど、ドキュメンタリー映像などの映像そのものにはストーリー性がないものでは、ナレーションで世界観を表現する。
BGMは極端な世界観を表すには向いているけど、微妙な表現は苦手なんだよね。
だって、世界の貧困みたいな内容のドキュメンタリーで「世の中の無常」みたいな世界観を表現しようとして絶望感あふれるBGMを使うと、きっと見ている人には「世界の終わり」みたいな世界観として伝わってしまうからww
たぶんそのドキュメンタリーに世紀末の救世主は出てきませんwww
ナレーションには極端ではない微妙な世界観とか温度感とかを表現する力があります。
そして、そういった世界観を一声で表現できるナレーターはとても需要があります。
その人が話すだけで独特の空気を作ってしまう俳優さんにナレーションを頼む作品が多い理由もここにあります。
言葉で魅了する魔術師
圧倒的な国語力
これはボクの経験上の話なのですが、ナレーションが上手な人は国語力が高いように感じます。
何気ない会話の中や原稿の誤字脱字のチェック、文章の整合性の指摘などに現れるんだよね、その人の国語力。
単にモノを知っているという雑学王的な国語力ではなくて、国語の先生になれるのでは?というような能力。
そういったものに長けているように感じます。
ボク自身もナレーションの収録時にディレクションをするため、文章の読解力や漢字の誤字脱字の指摘をすることも多く、少なからずその指摘に対して自信もあります。
でもそれは原稿を読み解く力であって、文章を的確に他者に伝える力ではないんだよね。
書かれてある原稿の文章を、書かれてある意図そのままに他者に伝える。
まず、ナレーションの原則はこのことです。
ただ、それだけではアナウンサーの仕事と変わらない。
というか、ナレーションを必要とする段階でただ内容を伝えるだけというような原稿にはならない。
つまり、ナレーターは書かれてある文章の意図を正確に理解し伝え、なおかつ聞いている人に世界観を示さなければならない。
けっこう凄いことをやってるんだよね。
国語力という言い方をしていますが、それは国語の知識だけの話ではないんだよね。
文章を語る「センス」みたいなものが必要になる。
人間が感じる美的感覚や、物事に対する嫌悪、情緒、匂い、その他いろいろ。
ナレーションの文章は物語を語ることは少ない。
物語を語るときは「朗読」という言い方になって、ナレーションとは違う。
その「物語ではない」文章に彩りを添える。
そこには様々なセンスが散りばめられている。
書き手側にセンスが求められるように、読み手側にもセンスが求められる。
もっと言えば聞き手側にもセンスが求められるんだけどねww
そんなセンスを裏付ける「国語力」がナレーターには求められる。
そしてその国語力とは単なる学習で身につくものではなく、その人の人生でいろいろな経験を積んだり、その人が感じたすべてを自身で消化することで身についていくもの。
ボーっと生きてちゃダメということだね。
間(ま)は悪魔
何にでも言えることだと思うんだけど、「間(ま)」って大事だよね。
日本人が感じる間って、歌舞伎やら日本舞踊からきていることが多いらしいんだけど、普段の生活の中でも所作が美しいとか、品があるとかって「ま」の取り方なんだよね。
間がまったくない人は何をやってもせっかちに感じるし、そういう人の行動はどこか滑稽だよね。
反対に行動や会話が間伸びしている人はは、「のろま」という印象を与えてしまう。
緩急と言い換えてもいいんだけど、そういった他人に印象を決定づけてしまう「間」の取り方はとても大事。
どんなに美しい声であっても、どんなに滑舌がよくても、間が悪かったら台無しになる。
そしてその「間」こそナレーターのセンスを左右する要因でもあるんだよね。
お笑いを連想してください。
漫才でもコントでも間の悪いお笑いは笑えないよね~
というか、寒気すら感じるよね~
あれと同じことがナレーションにも起きますww
間の悪いナレーションは寒気を感じます。
じゃあ、文章を読み上げるときの間とはどういったものを指すのか。
簡単なモノを例に挙げると、句読点の処理の時間的な「間」というのがある。
よくディレクション時にナレーターにお願いするのが
「今の読点(、)なんですが、もう半拍つめて読んでもらえますか?」
みたいな言い方をします。
通訳(?)すると。
文章の読点で間が空きすぎて間延びした印象になってしまったので、読点のところで少しだけ間を詰めてもらい、全体的にすっきりとした印象を与える仕上がりにしてください。
という長い説明をディレクションで伝えるとウザがられるので
「今の読点(、)なんですが、もう半拍つめて読んでもらえますか?」
という表現になってますw
この「半拍」をどう処理するかがナレーターの間に対するセンスの見せどころになります。
これは凄く解りやすい例で、句読点とはもともと音が存在しない部分だから当然間ができるよね。
それをどのくらいとるかというだけの話だから、表現する方もそんなに難しくはない。
それは聞く側も同じで、その間を感じるのはそんなに難しいことじゃない。
ところが、文章のなかの間というのは他にもいっぱい存在して。。。
あ、
きりがないからここではこの辺でwww
音痴
「間」は音楽で言えば「リズム」だと言える。
音楽にはほかに「メロディ―(旋律)」と「ハーモニー(調和)」というものがあって。
ナレーションを音楽に例えるならば、メロディーかな。
調和の説明はちょっとややこしいのでここではやめておきますが、人がメロディーを感じるときには音程が欠かせません。
つまりここではナレーションのときの声の高さの高低についてお話します。
高低といっても地声の高い低いではなくて、話しているときの音と音の繋ぎの高低について。
ちょっと解りづらいかもしれないけど、人って話をするときには抑揚をつけて話します。
これをやらないといわゆる「ロボットボイス」と言われる機械的な感じになる。
この抑揚のなかの音の高低についてのお話です。
ボイストレーニングの世界ではイントネーションとかアクセントとかで表現するんだけど。
これって「なまり」を思い出してもらえるとわかりやすいかな。
方言がきつい地方は標準語と比べて音の抑揚が大きいと感じたことはないかな?
つまり音の高低が標準的な範囲を超えるとなまって聞こえてしまう。
そして、そういった状態に無意識でなっていることがある。
なまって聞こえる状態なら意識すれば直るんだけど、なんとなく違って聞こえる状態が難しい。
この微妙な音の違いが割と全体に影響を与えるんだよね。
どんなに説得力のある内容の文章をナレーションしていても、音感が悪くなまっているように聞こえたら説得力は台無しになる。
どんなに美しい言葉で名言を語っていても、イントネーションがずれていてはそこばかりが気になって内容が全く頭に入ってこない。
どんなにかっこいい言葉をクールに決めても、アクセントの位置が外れてたら、別のキャラクターになっちゃう。
そして。
言葉自体が持つイントネーションやアクセントもあって、これを間違えると全然別の意味になっちゃう。
よく例に挙げられるのが
「そのハシを持って」
この「ハシ」の部分に2つの漢字を当てはめてみます。
「その箸を持って」
「その端を持って」
2つの動作を想像しておいてください。
そして実際に口に出して言ってみて。
箸と端。
このふたつ、イントネーションが違うんです。
箸は最初の「は」にアクセントが付き、「は」音が大きくなり音程も高くなる。
端は最後の「し」にアクセントが付き、「し」は音が少し大きくなり音程も少し高くなる。
これはごくごく一部の例なのですが、こんなことがたくさんあってしかも頻繁に問題になる。
だから正確に把握するのは一仕事。
でも、美しい日本語を語るうえでは欠かせない知識と技術。
それを要求されるのがナレーター。
ナレーションにも音感ってあると思う。
的確な表現力
朗読との違い
物語を台詞の言い回しも含めて聞き手側に読み聞かせるのが、朗読。
ナレーションは物語を伝えるというよりは、書き手側の心情や映像では表しきれない部分を補うためにある。
朗読の場合ほとんどが映像を伴わないけど、ナレーションはほとんどの場合映像がある。
ただ、映像で朗読を補足する場合もあるし、映像がないナレーションというのも存在はする。
朗読とナレーションの決定的な違いは、「物語」を語るのか「情報」を伝えるのかの違い。
朗読の場合、エッセイや手記(いっしょかな?)なども語られることがある。
よく戦時下の経験談を朗読で読み聞かせる催しなどが開催されているよね。
ああいった形で書き手側の心情を「物語」として聞き手側に伝え、より書き手の心情に寄り添うのが朗読。
これはこれでかなりのスキルを求められるよね。
ただ、ナレーションとは切り離して考えた方がいい。
というのも、朗読というのは情報を正確に伝えるということはそこまで求められていないので、読み手の技術的なスキルはそれほど求められない。
ところがナレーションの場合は情報を正確位に伝えなければならないので、技術的なスキルはかなり要求される。
そもそもナレーションは映像では伝えきれない情報を補完する役目があるので、当然なんだけども。
よく自然を映し出した映像につけるナレーションで情緒ばかりを意識したものがあるけども、場合によってはナレーションで伝えるべき情報が、いわゆる「入ってこない」状態になっちゃうんだよね。
それって映像の側の主観が強すぎるせいなんだと思うんだけど、ナレーションは客観でなければならない。
主観で伝えてしまうとそれは「朗読」になってしまう。
これって実はとても大きな違いなんです。
ナレーションは客観的な情報を見ている側に伝えるために存在する。
というのが原則です。
バラエティ番組の演出では違っちゃってるモノもいっぱいあるけどね~www
アナウンサーとの違い
そもそもアナウンサーは文字通り「アナウンス」をする人。
アナウンスというのは情報を伝え広めること。
本来は特定少数に向けて発信するモノではないんだよね。
テレビのニュースを読み上げるアナウンサーは情報を不特定多数の視聴者に向けて発信している。
それがアナウンサーの本来のお仕事。
じゃあナレーションはって言うと、実は特定少数に向けた情報発信なんです。
もちろん実際には不特定多数の視聴者に向けて発信されていますが、情報の性質が特定少数に向けられているとき、ナレーションはその対象に寄り添った語りになる。
聞いている人は自分に向けて語りかけられているような心境になる。
そうやって制作側が伝えたい「世界」が伝わってゆく。
ナレーションの場合、伝える情報が狭い範囲の定められた内容であることが多いよね。
例えば、あるスイーツのお店を紹介している情報番組があるとする。
そこで語られるナレーションは、お店の立地など具体的な情報の他に、そこで売られる商品がどのようにして生まれたのかや、店主のポリシーのようなものも紹介されたりする。
これがそのお店をただ紹介するだけのものだとアナウンスになる。
ナレーションには伝える側の「気持ち」や「心情」みたいなプラスアルファが含まれるんだよね。
そうすると、ただの情報伝達ではない「心のこもった紹介」といった感じになる。
そこがアナウンスとナレーションの大きな違いかな。
ちょっと変な例えだけど。
ある人物を大勢に紹介するときに、その人の名前や経歴などを淡々と紹介するのと、名前や経歴に添えて、その人物の武勇伝だとか恋愛事情だとかを含めて紹介するのとでは、その場の雰囲気は全然変わるよね。
なんか上手く説明できてないけど、アナウンスとナレーションにはそんな違いがあるのかもしれないかなww
講談師との違い
講談師というのを知っていますか?
その昔、ある物語を言葉巧みにときに激しく、ときに物悲しく、情緒たっぷりに語る人たちがいました。
今でも少数ですがいるのですが、あんまり馴染みではなくなったかな。
落語なんかがそれに近いのだけど、落語とはまた違ったジャンルとして昔は重宝されていました。
これもある情報を不特定多数にお知らせするという意味では、ある意味ナレーションの一部と言えなくもないかなと。
まあ、どちらかといえば一人語りのお芝居といった方が近いんだけどね。
なぜ、ナレーションと比較するかといえば、現在のように映像という技術がなかった時代にさもその場面を映し出すかのような語りは、情緒的なナレーションの見本となるようなモノではなかったかなと感じるのです。
ナレーションの中にもあるシーンを切り取って、そのシーンの温度や匂い、気配すら感じさせるようなモノがあります。
そんなナレーションに触れるとき、映像が邪魔とすら感じるときがあります。
その昔、人々は講談師が語る世界に没頭し、時に怒り、時に涙し、時に熱くなった。
人間が物語を語るということは、そんなエネルギーを発するのです。
現在、講談師というジャンルはメジャーではなくなったけど、ナレーションにはそんな「講談師」の時代の姿も透けて見えたりします。
華やかさも兼ね備えている
バラエティ番組には欠かせない
いや~昨今のバラエティ番組はにぎやかですね~
派手なナレーションが入らない番組はないといってもいいですね~
なんて、ちょっと冷やかし気味に語り出しましたが。
番組の質というか、内容によるところも大きいのかとは思うけど、ナレーションが画面の内容を面白おかしく説明する形が多いよね。
コンプラやら倫理やらでバラエティ番組は規制が厳しくなり、昔のように画面だけでインパクトを持たせる手法が使えなくなったのも大きいかな。
そんなこんなで、番組のナレーションは今や欠かせない存在になりました。
ナレーションの原稿を書いているのは番組の構成作家さんであることがほとんどなんだけど、それでもナレーターのセンスというか、笑いの素質みたいなものが垣間見えて面白いよね。
ナレーターさん、結構笑いのセンス持ってますww
演者さんの動きや表情に合わせたトーンでナレーションをしたり、特に動きのない画面でも盛り上げてみたり。
ナレーションで番組に華やかさを出すことはもはや当たり前の手法です。
また、画面に文字が表示されるテロップという手法も当たり前になってて。
そのテロップ、たぶんナレーションを入れた後に編集で入れてると思われます。
ボクは番組制作の音声にはあまりかかわったことがないので推測なのですが。
ナレーションとテロップの相乗効果で番組が面白くなっていることは間違いないよね。
この手法、しばらく続くのかな。
最近ではYouTube的な番組制作の手法もみられるから、いつまでも現状のままではないと思いますが。。。
CMにも欠かせない
CMも映像作品という観点で見ると、優れているものがたくさんありますね。
その中でナレーションの役割というものは計り知れず大きいモノなのです。
あまり映像作品やエンタメに興味のない人たちはCMというものをTVから流れてくる自然なものとしてとらえているので、その作品のクオリティーや芸術性に言及することはないでしょう。
しかしCMの持つ世界観は人の潜在意識に働きかけ、その心にいつのまにか印象を植え付けているものです。
そして、そのCMの一翼を担うナレーションもまた、人々の潜在意識に根強く植え付けられるのです。
商品名はもとより、ブランドタイトルやキャッチフレーズ、名言など。
心にとどまるフレーズは数知れずあります。
それらを様々な表現方法で伝えるのがCMナレーション。
美しく幻想的な世界もあれば、賑やかなお祭りのような世界もある。
生まれてきた理由を考えさせられるような言葉の響きもあれば、あたたかな家庭を心の底からかみしめることもできる。
言葉で伝えるという人間にしか許されていない行為を、極限に高めてくれるものがCMナレーション。
と言ったら大げさでしょうか?
CMというものは、人間が商品を売るという経済活動をやめない限り永遠に続いていくことでしょう。
そしてそれを発信するメディアの形は変わることがあっても、人間が人間の声で人間に伝えるということは変わらない気がします。
CMナレーションは、人間が経済活動をやめない限りなくなることはないでしょう。
これからも数々の美しく、楽しくもあるナレーションの誕生が期待できることでしょう。
今のテレビには欠かせない
そう、つまり。
ナレーションというものは、今のテレビにはなくてはならないものになっているのです。
今のテレビでは。
映像作品の作り方も多種多様になりました。
そしてそれを発表するメディアも多種多様。
特にYouTubeを代表とするネットメディアでは、映像作品(動画)の制作手法がテレビのそれとは違っているように感じます。
たとえば、バラエティ系のYouTube動画は、演者がにぎやかに何かをしているところを撮影するという手法がほとんどです。
この場合ナレーションはほとんど入りません。
テロップで補足したり状況を説明したり、ツッこんだり。
ナレーションはエンディングで演者がしゃべってる程度です。
まあ、あえてナレーターを起用する必要もないし、予算の関係もあるでしょう。
しかし、YouTube動画ではこの形が主流であり当たり前になっています。
ナレーション必要ないんです。
この先ますますネット系のメディアはチャンネルも含め増え続けていくことでしょう。
様々なバリエーションが生まれる中で、ナレーションが重宝される動画(番組)も生まれることでしょう。
ただ。
現状を読み解く限りでは、ナレーションを必要とするバラエティ系YouTube動画はあまり存在しない。
このことが今後のトレンドを占う上でどういう風に影響していくのか。
いろいろな意味でネット系メディアの動画(番組)には大注目です。
まとめ
ナレーションに対するボクの熱い思いをいろいろと語ってみました。
まだまだこんなものじゃ物足りないのですが、ひとまずこの辺で。
声の仕事に興味を抱いている人は、ナレーションというジャンルを注意深く聞いてみてください。
その奥深さを感じてみてください。
声優も魅力的だけど、ナレーションも魅力的ですよ。
それでは、今回はここまで。
ナレーション大好きゆうでした!
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